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考える面白さはこの上なく美味/意識・人間・心・世界・なんでも・霊魂研究/世界は大激動し始めた

考える面白さはこの上なく美味/意識・人間・心・世界・なんでも・霊魂研究/世界は大激動し始めた

仏陀と霊魂

*仏陀と霊魂#3*考える面白さはこの上なく*


原始仏典(仏陀が説いた教えに最も近い内容をもつ。大乗仏教は、後世の創作である)によると、仏陀は、霊魂とは呼んでいないが、霊魂のようなもの(異陰(漢訳);転生するなんらかの要素)があって、すべての人は永遠に転生しつづけていく、と説いている。

ただし、その異陰を消滅させれば(つまり転生の原因をなくせば)、もはやその人は転生せず、ニルヴァーナ(涅槃)にはいる、と。

ニルヴァーナとは、一言でいえば、永遠に平安な状態とでもいうしかないが、仏陀はそれを定義していないし、説明もできないとし、体験しないとわからない(体験すればわかる)と言ったそうである。

しかし、次のようなことがいえる。

質の科学によれば、仮にニルヴァーナにはいれたとしても、そのうち正反対の苦の状態になる、となる。

質の科学によれば、正があれば必ず反があり、人は両方を同じずつ体験していく、となる。

転生があるとして、この宇宙の法則と仕組みによって、そういった転生があるのだから、自分の力でその転生をなくする、などということはできない。
自分の力でその転生をなくするなどということは、地上に立っていて、自分の手で自分の襟首をつかんで、自分を持ち上げる、ということに等しい。いや、それよりも困難であり、百%絶対にできない。

仏陀は「原因があって、結果がある。これがある時これがある。これがない時これはない。これを消滅させればこれも消滅する」といったような論理に立って、転生する原因をなくすれば、転生はなくなる、と主張している。

しかし、その論理は形式論理であり、実際にはそうはならないこともある。

転生の消滅については、その論理は正しくない。

質の科学によれば、仏陀のいう、転生の消滅、というのは知性体(別記)の消滅だと思われる。

質の科学によれば、知性体は消滅しうるが、意識の主体(転生の主体)(別記)は絶対に消滅しない、となる。

その意識の主体(脳の回路的なものであれ、霊魂的なものであれ)は永遠に転生していく、となる。仮に消滅しても、また必ず生まれてくる、となる。


それはともかく、ここで注目しているのは、仏陀も、転生はある、と断定していることである。


ここで、原始仏典における仏陀の基本的主張をかんたんにまとめてみよう。

人生は苦である。

私はこんな苦の世界に二度と転生してきたくない。

ものごとはすべて、原因があって結果がある。

転生する原因をなくすれ(せ)ば、転生しなくなる。

私は修行して、心を正しくもって、転生する原因をすべて消滅させた。

よって私は二度と転生せず、永遠に平安な状態にはいった。

その修行法と心の持ち方はこれこれ(八正道そのほか)である。

となると思います。


私は、仏陀とは正反対です。

私は永遠に転生していき、この世界を永遠に観察し意識し味わい続けたい(大変なこともあるだろうが)。

質の科学によるとそうなっています。

ただし、仏陀の時代は大変な戦乱の世界であったし、現在とは多くが異なっており苦が多かったので、仏陀の気持ちはよくわかります。


ここで、注目すべきことを付け加えましょう。

キリスト教における霊魂観・転生観についてです。

新約聖書は、人間は原罪をもって生まれてくるという。

それは、前の生から引き継いだもの、と考えるのが自然である。

すると、前の生があった、ということになる。

その前の生でも、同じく原罪をもって生まれてきていたはずであるから、さらにその前の生があった、ということになる。

以上、いくらでも遡っていける。

となると、後の生もあることになるだろう。

つまり、転生がずっと続いてきたし、これからも続いていく、となる。


実際、原始キリスト教では、霊魂と転生の存在を説いていたそうである。

それが、ある時削除されたそうである。

それだと、教会に頼らせる必然性が小さくなりすぎる、と判断されてのことだろう。

(いやはや、困ったもんですな)

ということで、転生はありそうです。


ここで一言!

この世界の法則・宇宙の法則は、

自殺を禁じています!!!

禁!!!自殺

自殺すると恐ろしく不幸になります!!!

転生があるのなら、自殺しよう、ということも禁じられています!!!












*仏陀と霊魂#13*考える面白さはこの上なく*


ここ数回のコラムを本質的に要約すると、こうなります。

なにもないところから、さまざまな質が生まれてきた(質とは体験の性質のようなもの。無数の種類がある)。

そこでは正と反が対になって生じてきている。

正と反を足しあわすとゼロに隠れる。

逆に、ゼロに隠れていたところから、さまざまな質が生まれてきた。

そこの対生成と対消滅の原理は、運動量の法則とその保存則と同じである。

人が何かを体験(自分の言動も含む)すると、その体験の質かける時間(正確には時間で積分する。質の強度に時間的変動があるからである)なる質時間という変化が意識の主体につく。

その質時間は対生成しているケースがある。

つまり、それら対は、かかわりあった二人(正確には複数。かんたんにするため二人とする)の意識の主体につくケースがある、ということである。

質時間も質の法則に従う(しかもベクトルのようなものである)。

その場合、片方の人が死んだとして、その人の意識の主体についた質時間という変化は対消滅しない限り消えない。

つまり、その人が死んでも、その質時間なる変化は残る。

それはどういうことか。

霊魂があってそこに残るか、精神的・知性的なフィールドがあってそこに残るかのどちらかである、と考えるしかないのではないか。


ここから不思議な


霊魂がないと説明がつかないことは他にも複数


さて、仏陀はカルマがあると説きました。

私は原始仏教の経典をはじめ仏教関係の本をかなり読んできてるんですが、私の勉強した範囲では、カルマ(業)の定義と意味がはっきりしてない、という印象をもっています。

(カルマとは、かんたんに言うと本来の意味は、行為、である)

後世になって、カルマに関して詳細な論理が組み立てられたが、結局私が一番知りたい本質的内容として、いいことをしたらいいことを受ける、悪いことをしたら悪いことを受ける、ということ以上の説明に私は出会ってない(そこからはずれたごちゃごちゃした分析・論理には出会ったが)(国会図書館の書籍ででも勉強したけれど)。

ところが質の科学では、それについても実に明快です。

どの人も(すべての人は皆)(どの意識の主体も)ある体験をしたら将来必ず正反対の体験を同じ量体験することになる。

これが質の科学のいう科学的カルマ(質時間回帰則。体験元戻り則)である。

その定義と意味、解説もまったくもって明快である。

人には、意識の主体というものがある。

それは脳の一部に対応している(脳の回路的なものであれ、霊魂的なものであれ)。

人が何かを体験すると(言動を為す、体験する、など)その人の意識の主体にそれに応じたエネルギーの組織が送り込まれ、それに応じた変化がその意識の主体につく。

なぜなら、すべての存在は、エネルギーを受けると、それに応じた変化がつくからである。

同じ体験を続けていくと、変化が限界に達して、その意識の主体が壊れてしまうことになる。

そこで、意識の主体が壊れないような仕組みがこの世界にはある。

意識の主体が壊れない条件とは、ある体験をしたら、それとは正反対の体験を同じ量体験することである(かんたんな説明)。

それによって、意識の主体についた変化は元に戻る(このブログのあちこちでもっと詳しく既述)

ある体験をしたら、将来必ず正反対の体験を同じ量体験することになる、という命題の内容をより具体的に展開してみよう。

他人に為したとおりを将来必ず自分が受ける(よい面と悪い面がある)。

他人から為されたとおりを将来必ず自分が他人に為す(これはマイナスの方だと特に恐い)。

今の自分と正反対に将来必ずなる(転生を通じてそうなるものも多い。例えば、男→女・・・。頭がいい→頭が悪い・・・)

以上のことは、転生がないと完璧には成されない。

そこで、転生がありそうだ(霊魂があってもなくても)、ということの証明らしいものを挙げてみよう。

(霊魂があってもなくても! ですよ!)

意識の主体は脳の一部に対応している(たとえば、視床下部網様体のあたりの可能性が大。そこは実験的には意識の水準を司っていることがわかる。しかも、そこからほぼ脳全体に神経網が出ている。そこの脳の回路的なものが意識の主体であるか、そこに霊魂的なものが宿っているかどちらかである可能性が大きい)。

意識の主体が脳の回路的なものである場合(つまり、霊魂はない場合)、任意の人(どの人についても皆。すべての人が一人一人)があの世に行った(死ぬ、という表現を使いたくない)としても、また、その意識の主体と同じ脳の回路をもった人が生まれてくれば、それはその人の転生となるのである。

ここは非常に難しいですね。しかし、どう考えてもそうなります。ここの分だけでも論文的にたくさん書いていますが、多すぎるので割愛します。

次は、霊魂がある場合

そこで、転生がありそうだ(霊魂があってもなくても)、ということの証明らしいものを挙げてみよう。

(霊魂があってもなくても! ですよ!)

意識の主体は脳の一部に対応している(たとえば、視床下部網様体のあたりの可能性が大。そこは実験的には意識の水準を司っていることがわかる。しかも、そこからほぼ脳全体に神経網が出ている。そこの脳の回路的なものが意識の主体であるか、そこに霊魂的なものが宿っているかどちらかである可能性が大きい)。

意識の主体が脳の回路的なものである場合(つまり、霊魂はない場合)、任意の人(どの人についても皆。すべての人が一人一人)があの世に行った(死ぬ、という表現を使いたくない)としても、また、その意識の主体と同じ脳の回路をもった人が生まれてくれば、それはその人の転生となるのである。

ここは非常に難しいですね。しかし、どう考えてもそうなります。ここの分だけでも論文的にたくさん書いていますが、多すぎるので割愛します。

次は、霊魂がある場合です。

霊魂がある場合は、当然、転生がある。

しかし、そう断定するのは単純すぎて説得力に欠ける、という方もおられるでしょう。

そこで、霊魂の性質を追求しなくてはならない。

霊魂の性質!

でも、そんなこと、現在においては不可能だ。

ということは、仮説を打ちだすしかない、ということになりますね。

たぶん、霊魂があるとしたら、その性質はこうでしょう。

意識し味わう機能をもつ。

脳にくっつき宿る性質がある。

知性については、


単純には書けない

難しく書くと読む人がいない

ああ、困った


さて


とにかく、生まれてくる人の数と意識の主体の数を比べて

生まれてくる人の数の方が多いことを証明すればよい

そういう手もあるが


さて、霊魂がある場合の転生を考えるにあたって、霊魂について考えられることを考えてみます。

霊魂は;

意識し味わう機能をもつ。

脳または身体に繋がり宿る性質をもつ。

脳または身体から離れて、別の脳または身体に繋がり宿ることができる。



霊魂が単位時間に情報処理できる最高情報量を求め、そこから霊魂の質量のようなものを導きだし、そこからさらに霊魂の総数を計算し、それは生まれてくる人間の数よりも遥かに少ないことがわかると、転生があることになる。


意識の主体、つまりこの場合霊魂と、知性体は異なる

霊魂があるとすると、物質ではない不思議な存在があるということになり、心の世界はそこにあって、人間は亡き者になっても心はなくならず、


意識・心・知性がないと、人間は何もつくれない

→宇宙に知性的な存在がないと、生物は生まれない(宇宙は生物をつくれない)のではないか(それまでになかった生物の発生において)

霊魂があるという立場で、人間の場合、意識は霊魂にある

→宇宙に知性的な存在があるとすると、それの存在する場(フィールド)かひとまとまりの知性的存在があるはずである


霊魂とそのフィールドの関係は


霊魂は人から離れて


霊魂はあるという立場で、宇宙は永遠に続いていき、転生も永遠に続いていき、人間は無数に生まれてくるとの証明ができれば、転生はあることになる

霊魂がある場合、体験したことによる変化(質時間)が霊魂につく

1.自分だけの言動によって自分の霊魂につく質時間というものがある

2.他人との関係で自分と他人に質時間がつく場合、それらの関係の多くは正と反の関係になる。つまり、運動量でいえば、足しあわせるとゼロベクトルに隠れる関係

3.他人との関係で自分と他人に質時間がつく場合で、2.のように正と反の関係になっていないケースがある

4.自然や周り、環境との関係で自分の霊魂につく質時間というものがある

ここで着目すべきは、2.の場合である

その場合、片方が死んでも、もう片方の質時間は残っている

質時間の性質は運動量保存則と同じであるから、その死んだ人の質時間は消えずに残っている

つまり、その死んだ人の質時間は、足しあわされてゼロに隠れるチャンスを必ずもつ

それは転生して成される

ということは転生があるということである

つまり、霊魂がある場合でも転生はある


霊魂はない、とする立場でも、人と人との関係でついた質時間の関係は、正と反の関係にあるものも多い

その場合、片方が死んでも、その双方の質時間の変化は消えずに残る

それは、運動量保存則と同じ法則に従うからそういえる

ということはいったいどういうことか

それは、霊魂はない、という立場をとっても、霊魂がないとおかしい、という結論がでた、ということに近い

(あるいは、知性的情報空間があって、そこにその情報・質時間の変化が記録される、という実態かもしれないが)

やはり霊魂はある、ということだろうか

その上で、科学的カルマが働く、ということだろうか

ここ数回のコラムを本質的に要約すると、こうなります。

なにもないところから、さまざまな質が生まれてきた(質とは体験の性質のようなもの。無数の種類がある)。

そこでは正と反が対になって生じてきている。

正と反を足しあわすとゼロに隠れる。

逆に、ゼロに隠れていたところから、さまざまな質が生まれてきた。

そこの対生成と対消滅の原理は、運動量の法則とその保存則と同じである。

人が何かを体験(自分の言動も含む)すると、その体験の質かける時間(正確には時間で積分する。質の強度に時間的変動があるからである)なる質時間という変化が意識の主体につく。

その質時間は対生成しているケースがある。

つまり、それら対は、かかわりあった二人(正確には複数。かんたんにするため二人とする)の意識の主体につくケースがある、ということである。

質時間も質の法則に従う(しかもベクトルのようなものである)。

その場合、片方の人が死んだとして、その人の意識の主体についた質時間という変化は対消滅しない限り消えない。

つまり、その人が死んでも、その質時間なる変化は残る。

それはどういうことか。

霊魂があってそこに残るか、精神的・知性的なフィールドがあってそこに残るかのどちらかである、と考えるしかないのではないか。


ここから不思議な


霊魂がないと説明がつかないことは他にも複数


(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)


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